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『クラシック』と『料理』の  おいしい関係


by naxosjapan

special 2. ジャン・コクトー 「ある芸術家の卵」

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Jean Cocteau
(1889-1963)

これはラトビアの写真家フィリップ・ハルスマンによる作品(合成写真)です。
それぞれが異なる動作をしている6本の腕をもち合わた一人の男性。
作品名は「多芸多才の男」。モデルになった男の名は、ジャン・コクトー。

見た目の通り、彼はあらゆる芸術文化に精通した人物でした。
詩人、小説家、劇作家、画家、映画監督などの多くの肩書きに加え、交遊関係も大変広く、そのジャンルはさまざまな領域に及んでいました。
そしてそれは「食」に関しても同じだったようです。

コクトーは料理をひとつの芸術だと考えていました。

「料理とは一個の芸術なのであり、パスカルも認めているように、芸術形式であるかぎり―たとえもっとも慎ましい形式であれ―、全人格をあげて取り組むことを求めないようなものは、ただのひとつもないのである」(ジャン・コクトー)

どんな職業にでもたちまち興味を惹かれ熱中してしまうこの性格に、本人も多少は嫌気がさしていた様子。
とは言うものの、彼のようにオールラウンドな人間も当時としては限られた存在だったに違いありません。
そんな彼が愛した料理です。自然と期待値が膨らんでしまうのも仕方がないのです。

そこで今回は特別に、芸術家であるジャン・コクトーにスポットを当ててみたいと思います。
万華鏡のような人生をふり返りつつ、いざ彼の愛した料理を巡る旅へ。



ジャン・コクトーは1889年7月5日、フランスのパリ郊外メゾン・ラフィット(セーヌ・エ・オアーズ県)に、三人兄姉の末っ子として生まれました。
父・ジョルジュは自ら絵筆をとる美術愛好家で、母・ウジェニーは芝居やオペラが大好きな女性でした。
ブローカーの祖父(母方)・ルコントは、親交のあったロッシーニやサラサーテを家に招いて、秘蔵のストラディヴァリウスで演奏を共にするほど、大変な音楽愛好家でした。
また後のコクトーに多大な影響を与えることとなった、ギリシアの彫像、古代エジプトの仮面、アンゲルの素描、ドラクロワの油彩など、数々の芸術品の所蔵家でもありました。
芸術志向の高いブルジョワ階級のジャンの家庭は誰もが羨むところだったのです。

しかしそんな幸せな姿は、彼が9歳の頃に絶たれることに。
父親が原因不明のピストル自殺をし、翌年春には体調を崩した祖母が他界したのです。
この相次ぐ肉親の死は彼の心にタナトスをうえつけた原因のひとつだと考えられました。

11歳になった少年はリセ・コンドルセ付属高校に入学し、同級生のエール・ダジュロスという少年に出会います。
彼の冷酷でみだらな美しさに心を奪わてしまったジャンはダジュロスの前に出ると気分が悪くなったそうです。
「本当は彼に好かれたい」というジャンの欲望は、結果、彼自身の作品に投影され続けることになったのでした。その代表作が小説「恐るべき子供たち」です。

18歳になったコクトーは大学入学の資格試験を断念し、読書三昧な日々の中で、デッサンと詩を書き始めました。
コクトーの詩は高い評価を受け、翌年には朗読会、20歳で詩集「アラジンのランプ」を上梓。
これをきっかけにロシア・バレエ団率いる、芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフ一行と出会います。
コクトーはニジンスキーのための台本「青い神」(音楽:レイナルド・アーンの執筆を頼まれるも、本番は大コケするという大失態を演じます。
あきれたディアギレフはこの若者に「俺を驚かしてみろ」と挑発。
その後コクトーは、一大スキャンダルとなったバレエ「春の祭典」(音楽:ストラヴィンスキーに刺激をもらい、その4年後、同じくスキャンダルを巻き起こしたバレエ「パラード」(音楽:エリック・サティを完成させ、上演するまでにいたるのでした。

コクトーは装飾的な音楽を嫌い、シンプルで大胆なサティの音楽を好んでいました。
彼が発表した音楽評論「雄鶏とアルルカン」の主旨はサティを評価するために書かれたものです。文中では印象主義やワーグナーなどを批判し、サティの大衆的な作風を擁護しています。

「サティは現代における最大の大胆、すなわち簡潔を教える。彼は誰よりも洗練することができる証拠を与えなかったであろうか。そこで彼はリズムを掃除し、自由にし、裸にする。これもまた、ニーチェのいったように、《そのなかで精神が泳ぐ》音楽に比べて、その上で《精神が踊る》音楽ではなかろうか」(ジャン・コクトー)

大胆でシンプルと言えば、西洋料理の歴史にも似たような傾向が見られました。
コクトーが生まれた1889年と言えば、フランス革命100周年を記念するパリ万博が開催された年。
当時食に対する概念というのは「大量消費」が主流でした。
たらふく食事をし心行くまで飲むことは、富裕であり幸福である証拠とされていたのです。

この大量消費を哲学とする時代に登場したのがレストラン。
このレストランの出現により、貴族たちに許されていたディナーが市民にも共有されるようになっていきました。
加えて新時代の料理法を開発する者も現れます。オーギュスト・エスコフィエです。

エスコフィエの料理はつくる時間が短く、素材の新鮮さ、持ち味を引き出すあっさりとした調理に特色がありました。
「ヌーヴェル・キュイジーヌ」(新しい料理…シンプルな素材でシンプルな調理)の誕生です。

「料理は科学であり、アートだ」という考えをもつ彼は、厨房の構造改革を実行。
世界ではじめて分業システムをつくりだし、コースメニュー、現在のフランス式食事法を編み出したのです。

そのエスコフィエが70歳を超える晩年期に入ると、次世代を担う若手料理家が現れます。
彼の名はフェルナン・ポワン。リヨン郊外のヴィエンヌという田舎にあるレストランのシェフでした。

彼とエスコフィエの決定的な違いは「地産地消型」。
ポワンはエスコフィエの技術を基本としながらもその土地に根付いた食材を積極的にメニューに取り入れ、素材の持ち味を生かした料理を考案していきました。
調理工程も味付けもさらに簡素化し提供することに徹したのです。

ポワンの料理に深く影響された弟子のひとりに、レーモン・オリヴィエというシェフがいました。
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Reymond Oliver
(1909~1990)


前置きが長くなりましたが、この彼こそが今回ご紹介するコクトーと友人関係にあった三ツ星レストラン「ル・グラン・ヴェフール」のオーナーシェフなのです。

彼らの出会いはこんな感じでした。
開戦(第二次世界大戦)の直前、コクトーがたまたまオリヴィエの住んでいたモンパンシエ街の建物に引っ越してきたのです。
その向かいにはコクトーの親しい友人で女流小説家のシドニー=ガブリエル・コレットも住んでいました。
コクトーとコレットはそろってオリヴィエがオーナーをつとめるレストランへ足を運んだと言われています。

 “ボナペティ!(bon appétit)”

ゴールが見えてきました。
コレットは鮭のクリビヤックが大好物だったそうですが、一方のコクトーが愛した料理って…!?

実は彼の味覚を語るにぴったりの書籍があるのです。その名も、『コクトーの食卓』。
オリヴィエとコクトーが共有した味覚の数々を綴った回想録です。
今でこそ当然とされるヌーベル・キュイジーヌも、当時はまるで斬新だったわけですから、そんな雰囲気を現代と比較するだけでもさまざまな発見があり、面白いと思います。

この書籍にはスープをはじめ、前菜、卵、魚貝、肉、野菜、デザート、カクテルとおよそ60近くものメニューが紹介されています。
中でもコクトーがとくにお気に入りだったのが卵料理。
とくにこだわっていたというのが〈目玉焼き〉で、病に倒れたときも唯一口にしたかった料理だったのだとか。
コクトーはなにかある料理に惚れ込むと、1~2週間は同じものでも飽きずに食べ続けていたというのです。

たかが目玉焼きと思うなかれ。逆にそのような料理の奥義こそ深いもの。(?)
なにせこの目玉焼き、調理法が斬新極まりないのです(危険含む)

本日はコクトーの愛した卵料理“目玉焼き”に挑戦したいと思います。


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(材料) 
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・新鮮な卵 1~2個
・無塩バター 少々
・塩 少々
・黒胡椒 少々

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※パリ磁器で出している美しい模様のついた皿か、純白のお皿を用意するのだそうです
…が、我が家にはないのでいつもの白い皿(大活躍)。

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(作り方)
1パリ磁器で出している美しい模様のついた皿か、純白の皿に、バターを少々落とし(a.)、皿に火をかける。(b.)
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よい子は絶対マネしちゃダメだよ!
どうしてもっていう方は必ず「耐熱用」のお皿を選んでください!


2.バターが溶けたら(必要であればバターを少々加える)、皿の底を溶けたバターでまんべんなくおおう。
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※ほどほどに。薄く皿全体にひろがるくらい。


3.火から下ろす。
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※皿は熱しすぎないように気をつけること。
バターが溶けて非常に熱くなり、まだノワゼットにならない程度。

ブール・ノワゼットとは?
軽くじゅうじゅうというくらいに熱し、明るい褐色に色づかせたバターのこと。
実際にはしばみの色をしているところから、ブール・ノワゼット(はしばみ色のバター)と呼ばれている。


4.皿の底に適当に塩をふる。
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※お皿に塩をふるのはもっぱら「美的な配慮」によるとのこと。
黄身の上に塩をふると、小さな白い斑点ができてしまうのを避けるためだとか。


5.さらに適当な数の卵をひとつずつ割り(a.)、必要ならフォークの先で白身の形を整える。(b.)
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※新鮮な卵の白身はなかなか均一に焼き上げにくいため。


6.もう一度火にかける。(初めは弱火で、だんだん火を強めてゆく)
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…( ゚д゚)ハッ!
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…!!!!(☉Д⊙。)
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(煮えとるやん) ボソ
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7.黄身のひとつひとつにほんの少し黒胡椒をして供する。
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8.できあがり。
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♥♥♥♥♥♥♥ 7点
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なるほど。こういう味がするんですね。

確かに目玉焼きではあるのですが、
「バターで焼く」ことと「食材の下に味付け」をすることがとても新鮮で、
いつもとは違った美味しさを感じさせてくれます。
フライパン特有の焦げがなくパサつきもないので非常に上品な目玉焼きであることは間違いありません。
お皿を熱することで成立する味なんだろうなあ、と思います。

個人的に究極は生卵でいただくTKG(卵かけごはん)だと思うのですが、
卵白がどろりとしていたり、生焼けだったりを好まない当時の人々にとっては
良く焼かれた目玉焼きが最高の卵料理だったのでしょうね。

ただし調理法が危険すぎるのでそこだけがマイナス、かな。


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私は美食家でもなければ、とりたてて健啖家というわけでもない。
してみればレーモン・オリヴェは、一体どうした風の吹きまわしで、既にただでさえ膨れ上がりすぎてしまった私の関心事のリストに、新たに料理の一項を書き加えようなどと思いたったのであろうか。
思えば、たしかに私は、およそどんな職業にでも興味を惹かれ、たちまち熱中してしまう癖があるし、技術と、われわれを仕事へと駆りたてる神秘的な衝撃とのバランスは、芸術分野のいかんを問わず注目に値する問題だというのが、私の年来の考え方でもある。
きっとオリヴィエは、そのあたりの事情をちゃんと心得ているのであろう。(ジャン・コクトー)


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中年~晩年のコクトーは映画の世界(脚本・監督)でも活躍するのですが、その映画にちなんだ料理も考案されているのはご存じでしたか?

映画「オルフェ」(1950)
オマールの網焼き オルフェ風 Homard grille Orphée
※地獄の業火を思わせるような非常な強火にかけた料理にしたらしい

映画「双頭の鷲」(1947)
鴨の冷製 双頭の鷲風 Canard froid Aigle à deux Têtes
※これを作るには鴨が二羽必要ということから

サティの音楽にしても、目玉焼きという究極のヌーベル・キュイジーヌにしても、コクトーは非常にシンプルでモダンな芸術を愛していたことがわかります。
その多種多彩な人物像からは見当もつかなかったコクトーの本質。

そしてそれは長年彼の愛人であった俳優ジャン・マレーの言葉によって鮮やかに浮かび上がるのでした。

ジャン・コクトーがその生涯を通じて創造したのは、ただ一つのもの-「詩」であった。それを表現するために、彼は様々な手法を用いたのである。(ジャン・マレー)

終わり

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参考文献,資料:
レーモン・オリヴェ(著),ジャン・コクトー(画),辻邦生=訳. コクトーの食卓. 講談社,1985
スザンヌ・ロドリゲス=ハンター.山本博[監訳]・山本やよい[訳] ロスト・ジェネレーションの食卓 偉大な作家・芸術家たちは何を食べたのか. 早川書房,2000
ジャン・コクトー.梁木靖弘=訳 映画について. フィルムアート社,1981
ジャン・コクトー展. 毎日新聞社ほか,1988
ジャン・コクトー, エリック・サティ. 深夜叢書社,1986
西川正也, 新評伝 ジャン・コクトー(1)幼年時代(PDF形式)(「共愛学園前橋国際大学論集」第12号). 2011
西川正也, 新評伝 ジャン・コクトー(2)学校の思い出(PDF形式)(「共愛学園前橋国際大学論集」第13号). 2012
荒俣宏, 奇想の20世紀. 日本放送出版協会,2004

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by naxosjapan | 2013-07-26 17:55 | special